2015年6月29日月曜日

かげゆく森

  授業の終了を告げるチャイムが半開きのまぶたを全開にさせた。
 居眠りしていたかもしれない。周囲の確認をする。
 ……誰も見ていなかったようだ。
 なにはともあれ、疲れと眠気で頭が回らない七時限目は終わった。解放されたのだ。教室は一斉に帰宅または部活モードへ切り替わる。ある人は帰り道でどこかへ友達とともに寄ろうと話していたり、ある人は今日の練習メニューを話し合っていたりする。左隣の子はかばんに手をかけて待機していた。一秒でも早く家へ帰ろうという意思の表れだろうか。
 ほどなくしてホームルームがはじまる。帰宅部のわれわれには関係のない諸連絡が並ぶ。
「よっち、寝てたでしょ」
 帰宅部の鑑ともいえる左隣の子……もとい”ちぃ”が、自動販売機のくじにでも当たったような表情を浮かべながら話しかけてくる。
「寝てないよ。ちぃこそ前髪ぼさぼさじゃん」
「げ。ほんと?」
 机にへばりつきながら答えるやいなや、ちぃは前髪に手をやるが、
「む?」
 ひと通り確認したのち、みだれなんぞまったくないと視線で語り掛けてくる。
「やはりあっしの前髪は無敵ですな」
 ちぃは自信満々に髪を揺らしてみせる。まっすぐに切り揃えられた前髪が流れる。もとからくせの強かったわたしの髪とは正反対で、初めて会った小学生の頃からとてもうらやましく思っていた。
 いまわたしの頭を傾けてみても、ちぃのように髪が流れることはない。
「はあ……」
 ためいきが出る。教壇に向かって左側の窓を眺めるが、夕日は見えない。代わりに見えるのは限りなく黒に近い色をした雲だ。少しだけ開けておいた窓の隙間から吹き込む風が強くなってきた。カーテンのゆれも大きくなり、ちぃの顔にかぶさる。
 そろそろ降るかなとちぃが言いながら窓を閉める。そのすがたを見ていたところで机の右側を人差し指が叩く。主は右隣の席の子だ。
「ねえ吉見、傘二本持ってたりしない?」
――帰りの途中で雨、降りそうだよね。ほら、私家まで歩きだし。三十分かかるし。
 困っている具合を十段階評価で表すなら七くらいだろうか。あの空に焦りを感じているのか、微妙に腰が浮いている。余裕がないのはわかるが自転車通学者たるわたしに傘を持っていないか聞かれても困る。
「持ってないよ」
「そっか……」
 わたしが最後の望みだったらしい。ひどく落ち込んだ様子をみせてくる。しかし持っていないものはどうしようもない。わたしだって今日は雨が降るなんて知らなかったものだから、せいぜい学校の購買でもらった小さい袋に濡れると困るものを入れるくらいしかできない。

 自転車置き場から自転車を引っ張り出しさっさとこぎ出す。自転車置き場から校門まで歩くと時間がかかるので、みんな校内でこぎ始めている。先生もそれをとがめることはない。
 自転車で一分。校門の脇を通っていくちぃの姿が見える。
「また明日!」
「あ、うん。また明日」
 軽く手を振ってから前を向き帰り道を急ぐ。ペダルを踏むたび髪に湿気がまとわりつく感覚がする。
 帰りまでもつかな、この天気。
 家の方向には電車もバスもない。学校から家まで自転車で四十分ほどかかり、急いでも三十分はかかる。学校から出て十分ほどだろうか。喉の奥から音がもれ出すくらいに息切れもはげしく、脚は徐々に重くなってくる。
 体力のなさを恨みながら一旦こぐのをやめる。自転車のチェーンはからからと、タイヤは湿っぽい音をたてながら隧道に入る。ゆるやかな下り坂が自転車を走らせているおかげで速さを落とすことなく下ってゆく。ここまでなら今まででの個人的なタイムアタック記録の中で一、二をあらそうほどに早かった。しかし折り返し地点はこの先にある、小さな丘のてっぺんだ。
 この重い脚で丘なんかのぼりとうないと考えながら、とりあえず下り坂のあいだはペダルを踏まずに熱くなった体を風で冷やすことにした。

 だるくなった脚にむち打ちながらなんとか丘をのぼりきり、再び下り坂にさしかかったところで大粒の水滴がぼたぼたと肩やら脚やらに落ちてきた。ペダルをふた漕ぎくらいする間に視界は雨粒で白くにごってしまった。
 下り坂で自転車が勢いづくなか、制服はどんどん水を吸って重くなってくる。今から隧道まで戻るのは今の脚の疲れ具合からいって絶対にやりたくない……。
 下り坂の勢いで家までの距離を縮めながら、わたしの左側に広がる森の中へ通じる道を探す。いくつかそういった道があるのをいつも見ているけど、なかなか入る機会がない。こんなどしゃ降りじゃ木の葉の傘が役に立つかわからないけれど、ないよりはずっといいだろう。
 そうしてしばらく走ってゆくと、記憶通り森の中へ通じる道が見えてきた。家まであと十数分といったところ。そのまま走っていっても同じじゃないかとも思ったけど、無意識のうちにハンドルを森の中へ向かわせていた。分厚い雲のかげで覆われついさっきまで走っていた道はだいぶ暗かったが、森の中はさらに木々のかげが行き交い、暗闇の濃度が増しているようだった。
 舗装はくずれ、飛び出た木の根が自転車の前輪をはね上げる。見通しのきかない道をゆっくり進んでゆくと、ひとつ灯りがともっているようすが浮かんできた。
近づいてみると、電球を風雨から守るかさに穴の開いた外灯が立っているのがわかる。不思議なことにこの道の外灯はここだけしかないようで、来た道にはなかったし、道の先にもなさそうだった。
 灯りが案内しているのは道端に建つ頼りない小屋だ。使われなくなってから時間が経っているのか、出入り口の近くまで草が生えている。木々のかさはあまり役に立っていないので、できるものならちょっと小屋で雨宿りさせてほしい。なんだか不気味だけど。
「すみませーん……」
 引き戸をノックして中に人がいるか確認する。

 …………。

 しばらく様子を見ても誰か出てくる様子はない。でも誰かが息をひそめていたらどうしよう――いや、そんなときは自転車でとにかく急いで逃げればいっか。
思い切って戸を開けてみる。泥を引っかくような音を立てながら小屋の中の様子が視界へ入ってきた。当然小屋の中は暗い。
 ひと呼吸おいてから前へ進む。戸に手をかけ顔だけ小屋の中に入る。
――誰もいないみたいだ。
 小屋の中へ足を踏み入れる。間口は五歩、奥行きは十歩歩ける程度の広さで、隅々まで様子をみたが誰もいないようだった。物はほぼ置かれておらず、あるのは木の椅子がひとつと酒瓶が二、三転がっているのみ。もうすこしいろいろと置かれていれば安心感もあっただろうに。この小屋はかなり自分が小さく感じるのであまり長居したいとは思えない。ないよりマシだけど……。
 とりあえず今の状態で安心しておくよう自分に言い聞かせる。すでにずぶ濡れな自転車を小屋へひっぱり込んでおいて、雨が弱くなるまで待つことにした。

 三十分もしたら小雨になるだろうと思っていたけどそんなことはなかった。

 雨は降りやまず、風が雨粒をもって窓を叩くような状況が続いている。待っている間といえば何もすることができないので、ただ暗闇に視線をやるだけだった。
防水機能のない携帯電話をかばんから引っ張り出し、時刻を確認する。
 七時半。
 お腹空いたなあ。今日のごはんなんだったんだろうなあ。二十分ずぶ濡れになってでも帰ったほうがよかったかなあ。
 すっかりさみしくなったお腹をさすりなぐさめていたとき、雨音にまじって硬いものが叩く音が聞こえてきた。風で枝でも落ちたかと思ったが、それにしては同じところが叩かれているようだ。
 こんなときにいったい誰だろう?
 自転車は小屋のなかへ入れたし、この小屋に誰かが住んでいるということもなかろうし。転がっていた酒瓶を片手に音のしたほうへ近づく。
 戸をほとほとと叩く音がする。
 ほんとうに開けて大丈夫なのかと三度頭のなかで問い直す。
 酒瓶で一発殴れば大丈夫でしょ、と頭のなかの誰かさんが返す。
 じゃあいいか、と思いつつ、やっぱり戸はゆっくりと開けていく。

 戸を開ききり、向こうに立っているかげを確認する。
「なんだ、ちぃじゃん」
「雨、降ってるでしょ。傘ないっていうから」
――傘を持ってきたよ。わたしこっから家遠いしもう帰るよ。帰り気をつけてね。
 みなまで聞かずとも、表情と行動が語り掛けてくるのでわかる。
「そっか。ありがとう……ってちょっと待って」
 どうしてここにいるのがわかったの、とか、どうやってここまできたの、とか、加えて言う間にちぃの姿はよわよわしい外灯の照らす範囲から消えて見えなくなってしまった。
 せめて途中までは一緒に帰ろうと思い急いで自転車を小屋の外へ出す。
外灯のあかりを頼りにつけた自転車のランプのおかげで、うっかり道を踏み外すことはなかった。押しながら走ってみたが、わかれ道でちぃが待っているようなことはなかった。あちらが歩きならじゅうぶん追いつける距離だと思ったのに……。

*――――――*

 今日は晴れたし風も弱かったので、少しだけ早く学校に着いた。ちぃはわたしのすぐあとにきた。
「あ、ちぃおはよ」
「ん」
「ゆうべは傘貸してくれてありがとね」
 かばんからきれいに畳んだ折り畳み傘を取り出す。
「あれ、傘なんて貸したっけ」
「貸してくれたじゃん。これ」
 ちぃは傘をしばらく観察していたが、最初の反応が覆ることはなかった。

0 件のコメント:

コメントを投稿